文化は原始を覆い、本質を侵食し、溶けるような、あたかも文化が本質のような。
卵の殻のようなそれは、以下様にでも変化する命を守るに値するも、まさに守るものでしかなく、あたかも躰そのままのような。
触れるとは何に触れるのか。殻に触れ、命に触れず。
先週の事、鎌倉での友人、藤野さんからお誘いで、本栖へ。僕以外にもスタッフさん含めて十人程仲間がいて、富士樹海の散策や風穴でのライブを楽しみました。写真は樹海のものです。ふと、そこで思いました。自然に身を預けると、森という存在にばかりを感じる。樹を感じる。虫や動物を感じる。しかし、それは形としての生き物で、本来の生命を感じているのだろうか。自然を感じているのかと。
生命はもっと繊細で、形がなく、混じり合うような、溶け合うような。
風穴での話
陽が落ち、樹海を抜け、風穴に向かいます。暗い洞窟の中、安全に行ける奥まで進み、皆んなで暗闇に身を置きます。ポタポタと無数の水滴が地面の氷にあたり、音が広がります。近くの水滴の音は身近に優しく感じ、遠くの水滴の音は冷たく、他人に感じる。そのような感覚でしょうか。その後、引き続き暗闇の中、パフォーマンスが始まります。山崎阿弥さんの声のパフォーマンスから始まり、僕の地無尺八、濱田織人さんのベース、藤田一照さんの般若心経、極楽カリーの竹迫順平さんの唄いと石笛。本当にみなさん素晴らしかった。阿弥さんの人とは思えない動物のような、恐怖であったり、自分の命を引き出されるような。織人さんのセンスある、また丁寧な弦を感じる、音を楽しむような感覚、一照さんの熟練された揺るぎないお経。自由で遊び心があり、魂のある順平さんの声と石笛。三者三様の音の求め方があり、僕にとってはまさに生命を感じる体験でした。個であり一つであり、尊重し、ただ在るような。
僕はというと、自分を引き出すというより、他人にどう見せるか聴かせるかに集中してしまい、また無数の水滴に音が吸い取られアタフタと。しかし、途中から、この静かな音だけしか届けられない尺八を思い、尺八も自分も持っている素材を生かす事に集中しました。演奏中、自分の中に、すごいと思われたいとか、テクニックや力技で伝えたいという欲求があった事には驚きました。そう、環境や比べる対象などで心が大きく変化し、自分らしさや楽器も含めて、元々の特性を放棄した自分に。心から、そう望んでいる自分に。
触れると触れない次元
帰り道、ふと十一歳頃の自分を思い出しました。怪談話のような体験です。その当時の僕の身の回りでは、とても不思議な事が起こっていました。襖が勝手に閉まったり、テレビ(昔のブラウン管の取手式のもの)が点いたり、電気が勝手に消えたり。その中でよく覚えている体験の一つを思い出しました。僕は夕食前に疲れて自宅二階の部屋で寝ていました。食事で起こされ、寝ぼけたまま一階の食卓に付きます。ぼおとしていると、とにかく天井にある照明が明るい。眠っているとも起きているとも分からない感覚で、何となく、「消えるような、消すような」そのような感覚になりました。明確にその感覚になった瞬間、パチンと照明が落ちました。あの時の感覚は何だったのか。風穴から今に至るまで、その体験と同じ感覚が続いています。
僕の響き
僕の尺八の音は、この三年くらいで、随分、変化しました。パフォーマンスという感覚から離れて、最初は繊細な音、その後、偶発性のある自然的な音、昨年末からは漂うような、在る音を目指していました。しかし、どの音も僕らしくなく違和感を感じていました。(自分が元々持っている気質的なものとズレを感じていました。)それから暫く自分の響きや自分探しをしているような気持ちでした。
今年の三月くらいから、そうした試行錯誤の中で、実は今回、本栖での演奏で、自分の気質や響きに気づかせてくれる感想を頂きました。風穴での尺八を聴いて下さった感想です。「感情が無意識にばーっと出てきて涙が止まらなくなった」というお話でした。考えてみると、僕が作曲した「心透」でもそういう感想を頂いた事があります。人に教えている時にそうなってしまった方もいました。どうして今まで気付かなかったのか。そこに自分の気質と自分らしい響きがあるという事に。それは十一歳の体験にも繋がります。「触れるような、触れないような」そんな感覚。今回のような感想を頂く時は、決まってそんな感覚でいる事が多いです。
自分の気質に戻す
帰ってきてから、なるべくこの「なる・する」感覚を維持するように努めています。音は自分を通して出るものですから。猫に触れる時も、言葉を伝える・聞く時も。(実は猫の方ができているのだと感心したりしています。)これが、なかなか難しい。対人関係を通して色々な自分が存在しますし、強く意志を伝えたい時もあります。逆に聞き役に徹しようなどと思う事もありますし。全てが「なる・する」感覚である必要もないのでしょうが、まずはなるべく。伝えるのではなく、相手の意志がこちらに向くくらいに繊細に。ロルフィングのゼロタッチ、クラニョーセークラルの5gタッチのように。何度も言いますが、本当に難しく、我が家の祐経という禅猫を見て研究している方が、わかりやすいという。目も耳も皮膚もそうなれればいいのですが、まだまだ習得中です。
日本の感覚を感じる
考えてみると、僕が感じたものは、決して特別なものではないのだなあと、数日経って感じています。風鈴を聴くような、お寺の鐘を聴くような。元々、昔から日本人が持っている感覚なのだなと思います。(今現在、聴く側の耳も二元論的な耳が増えて、騒音に感じる方が多くなってしまったのかなと残念に思う時もありますが。)若い時に謙虚であるようにとか、主語がない日本語とか、もっと控えめな意味だったり抽象的な意味があると思っていましたが、本栖から帰ってきてからは違うように感じます。
僕の地無尺八の音はエンターテイメント性にかけるかもしれません。(そもそもそのために吹いているわけではないのですけれど・・・)エンターテイメントや芸術は、世界的に似たり寄ったりになってきている節がありますけれど、日本文化が何なのか、オリジナリティやアイデンティティーに疑問を感じた時、僕に触れて、ふと思い出してくれる、そんな音や人であればいいなと思います。
自分を知る
今回の本栖は、自分の気質や音に気付かされてくれる旅でした。社会に揉まれて、色々な人と関係を持つと、その数だけ環境にあった自分を演じてしまうのは僕だけでしょうか。様々な演奏もしますけれど、格好も付けますけれど、できるだけ自分の気質で生きられたら、どれだけ幸せか。
文化的な生活はとても好きですけれど、僕の場合、原始的と言いますか、黄身と白身のような躰で、「触れるような、触れないような」感覚で生きていきたい。そう思います。
また皆んなと会えたらいいな。誘ってくれた藤野さん、企画のGood mood、賢治さん、ロックさん、高梨さんに感謝して。またいつもの友人と新しい友人にも出会えて、とても嬉しいです。
今回、旅をした本栖湖の様子を、今回企画してくださったNature Good ModeさんのYou Tubeから見ることができますのでリンクします。他の動画も美しいので是非!
Nature Good Mode
また、一緒に旅をした仲間、皆んなではないですけれど、とても素敵な方達です。
もし、よかったら、覗いてみてください。
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