つい先日、円覚寺の布薩でのお話です。最近、話題にもなっているドラマ「silent」の主人公も患っている難病、「若年発症型両側性感音難聴」の方とお会いしました。遺伝性で何年もかけて聴こえなくなる病気です。僕とそれほど歳がかわらないその女性は、片耳に人工内耳というものを手術で取り付けていました。それで人の声は聴こえるようになるそうです。11月にまた片耳に人工内耳を取り付けるというお話の内容がとても印象的でした。
僕はてっきり手術をすれば、すぐに聴こえるようになると思っていたのですが、リハビリには4ヶ月程かかるというのです。しかもとても苦痛という事でした。詳しくお話を聞くと、人工内耳で聴こえてくる音と記憶にある音をマッチングしていくという事でした。その際の心の保ち方が大変だという事でした。そこで、尺八の音は聴こえるものでしょうかという話題になりました。そうすると、記憶にない音は認識ができないかもしれないというお話でした。
僕は耳というものは今現在の音を聴いているものとばかり思っていたので、とても不思議な感覚になりました。その話を聞いて、横田老師が「私たちは、現実を正確に把握できない」というようなお言葉を発した瞬間に、とてもハッとさせられました。
1つの音に対して、私たちは大抵一つのカテゴライズをしてしまいます。「水」「風」「人の声」「ピアノ」「エンジン」など。しかし、その一つ一つには記憶や思い出が必ず背景に在ります。つまり同じ音でも十人十色な訳で、当たり前ですが、そこには好き好きが生まれます。
また、疑問に思ったことが僕たちは耳だけで音を聴いているのだろうかという事でした。それにも、たまたま先日、難聴の友人と会った際、興味深いお話が聞けました。彼は難聴になる前、電車のエンジン音が、音だけで、どのメーカーのエンジンか分かったそうです。彼は、難聴になった今も、身体に伝わる振動だけでエンジン音が分かるそうです。
僕は修行のために耳栓をしながら山などを歩く事があります。それは耳を使わなくても空間を把握できるようにする事や、意識だけでも耳を遠くに飛ばす事を目的としています。また耳を塞いだ状態だと心も無感情になりがちになります。そうした心の保ち方も覚えるためです。考えてみると、修行の際、確かに手に触れる風、葉が揺れる景色、音がない木漏れ日さえも、音として認識していると感じる事があります。しかし、もしかしたら、それすら過去の記憶から取り出している音なんですよね。
僕達は、今を生きているにも関わらず、過去を頼りに生きている。もし、今を感じたいのであれば、記憶に頼らず新しい気持ちで聴く事がとても大切だと気付かされた出会いでした。(どうすればよいかは、わかりませんが。)それは、耳だけではなく、友人や恋人、パートナー、両親の付き合い方にも言えるかもしれません。
You Tubeなどで手軽に動画などを見られる現代。改めて、2次元だけでなく、肌で感じられる情操教育が必要だなあと思ったり、共有の音の記憶というわけではないですが、友人や恋人、両親などと色々なものを一緒に感じる事の大切さ。また、色々な音や感覚を養ってくれた両親、祖母に感謝しています。
考えてみると、2mの尺八、「空道」もなるべく自然の音、誰も聴いたことのない音をと思って作った楽器。今に生きる楽器なんだなあとしみじみと。
今を生きよう。
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