こんな事はないだろうか。どこからか、言葉が降りてくる事。僕はそうした事がよくあり、大事な事はメモをしたりしている。こういった時は、僕の場合、大抵、哲学的な内容が多い。または音であったり。それを忘れないようにメモをする。それは自分のためだけに。スマホが世に出てからは、よりメモを取りやすくなったので、その蓄積は増える一方である。蓄積された内容は、稽古や何かしら迷われている人に話す時に滲み出る。実はそのような感覚が、今の今まで続いていたのである。
ところが、最近になって、その感覚が億劫になった。言葉でいくら正解を導き出しても、また言語で吐き出しても、無であると思うようになった。百千万億劫。100✖️100✖️1億。難しい言葉を並び立てたところで、人が生きる上で必要な事や出来る事は限られているし、幸せになるとは限らない。やはり身体があって、身体を使って、その中の一部に感覚というものがあるのではないか。そうした事を坐禅の際に浮かぶようになった。
そうなると、とにかく言葉を使う事がとても億劫。例えば、「こうこう、こうした方がいい」と言葉で伝えたとしても、絶対にそのようにならないし伝わらない。知った気になられるし、伝え損である。例えば、深く考えても、一つも行動を起こさない。世界は変わらない。だから、最近は難しい話もしない。笑ったり、泣いたり、怒ったり。身体から言葉が薄くなった。
髄の話。
いよいよ持って、頭の中でも言語で考える事がなくなった。イメージであったり、こうして文章に書く事も、少し辛い。実は最初のうちは頭が疲れた。100ある内容を10に咀嚼する事なく、濃厚なまま吸収される。自分自身の中でも知らずに能力を使わないために咀嚼されている事を知った。人間は怠け者だ。そこで、とても腑に落ちた。人に伝える時、僕たちは内容を100を10にする。なんとなく、それは、コミュニケーションスキルや仕事のスキルとして手に入れて、そのまま使っている。しかし、当たり前に、そこには100の意味はない。しかも、10を100にする事はできない。(知識としてはできるかもしれない。)100は10にできる。なんとなく、僕たちはわかるように10にしてあげる。そんな事が日常に蔓延している。髄とは、100のうち、10を知ることではなく、200知ることであると僕は思う。200を身体に入れる方法は、たくさん身体を使って入れる事だけではない。まして努力だけではない。
今、日常で、空を見上げて、何を思いますか?
空? 青? 天気?
見えない、星?
過去の自分?
大切な人?
未來?
それは、10の世界。
今、日常で空を見上げて、何を思いますか?
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